新海誠「ほしのこえ」 ~人類補完計画完了後のセカイ~
新海誠の作品は、かなり前にネット上で話題となっていた「ほしのこえ」を見たのが始まりだった。
最初は「世界観は面白い。ともかく一人で作ったのはすごい。」と思って見始めたのだが
開始3分でむずむず違和感が、10分で謎の脂汗が出始め、あとは羞恥と謎の怒りっぽい感情に身を焼きながら見続けた。時々耐えられなくなると、DVDを止めて、また見る。という息継ぎ方法で最後まで見終わった。
煉獄のように長い25分間だった…そしてその夜は朝まで眠れなかった。 こんなこと初めてだ…大日本人だって最後まで見たが、こんな気持にはならなかった。(視聴時間分の喪失感はあったが…)
作品を100文字以内で簡潔かつ正確に表すと
「エヴァ」のコックピットに「最終平気彼女」の「ちせ」を乗っけて、「トップを狙え」の世界観にぶち込んだ後、ちせと主人公以外の全員を消去してスッキリした後の世界の中で繰り広げる光の距離で隔たった遠恋。」
で98点くらい貰えると思うのだけど、それだけでは「 オマージュだなあ~」以外の感想を説明できない。
そこで、この理不尽といえるほどの感情が湧いてくるのか何故かと悶々と考え続けたところ、原因が「ディスコミュニケーションの放置 & 賛美 」にあるんじゃないかと思い当たった。
ディスコミュニケーション=コミュニケーション不全は ありとあらゆる物語で成立する根本的なな道具立てであり、例えば
寄生獣(ミギーと新一の食い違い)だって、ムラカミハルキ(直子…。)だって、ロミオとジュリエットだって、これをうまく使って物語を進めてゆくのがセオリーだ。
だが、この作品は明らかなディスコミュニケーション事案が頻繁に発生しているのに、尽くスルーされつつ物語が進んでいく。
さながらボケに誰も反応しないコントのよう、そこにはコール・アンド・レスポンスは存在せず、ただ孤独なコールが目覚まし時計のように繰り返されるばかりだ。
(※名倉が入る前のネプチューン(フローレンス)でボケの掛け合いのみをする泰造&ホリケンはシュールで秀逸だったけれど…)
これは寄生獣でいうと、序盤のトイレでミギーが突如屹立したモノを形取るシーンで、新一が嘆くばかりで突っ込みをしないのでミギーも引っ込みがつかず、 終盤まで ミギー=男根のままで物語が進んでいってしまった…ような場合における居たたまれなさに似ている。
しかももっと突っ込んだ話、ディスコミュニケーションに対するレスポンスが無いということは、ミギーも成長しない。
だから硬い口調のまま、新一の頭、左手(両左手の男)、食い倒れ人形など、 いつまでも いつまでも趣向を凝らした造形を試みるので、 カーズ様(完全体)みたいな状況になってしまう新一。でも「なんで僕がこんな目に…」とブツブツ独白を続けるだけの新一、でもそれを横で見ていたヒロインは新一にゾッコン惚れちゃう。 (この後ヒロインは突如北海道に引っ越してしまう。) といった構図で表すことが出来るだろうか…。
むちゃくちゃ当たり前なことだけれど、 個人が個人であるかぎり コミュニケーション不全は全人類の主だった悩みの一つであり続けるし、根源的に人は理解をされようとあがき続ける。それが人間だとおもう。
ただ、ちせも主人公も足掻かない。ただその状況を受け入れるだけ。
そこにあるのはエヴァの人類補完計画(ゼーレ)後のセカイ、個人と個人の軛から開放されたLCLを新海誠が掬い上げ、ちせと主人公を形取ってうっとりと恋愛ごっこをさせている…。そんな不気味の谷現象に似た気持ち悪さだ。
※後から「新海誠 ディスコミュニケーション」で検索したら
http://wordsofgold.hatenablog.com/entry/2016/10/02/210530
の記事が見つかりました。
こちらの方の圧倒的文章力でほとんど私の言いたい事が言われてしまってますが
記念に書かせていただきました。