あいちトリエンナーレ 〜表現の不自由と足蹴にされたアート〜
揉め事は 大体収まってしまったのかもしれないけれど、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」は、その極度に政治的、侮辱的、暴力的な表現のため、幕を閉じた。
そして幕が閉じると同時に、おそるべきスムーズさで津田大介が謝罪風ご意見(反ヘイト宣言)を公布、見計らったかの如く、朝日毎日系の憲法第21条を守れとの検閲反対記事でフォロー、おなじみの左翼陣営のシュプレヒコール響き、 老人達は街角で横断幕を掲げ 、SNS上には反安倍の尖塔が幾つも築かれた…。
そして豚(私)は激怒した。踏みにじられた表現の自由に嘆いて?
否。そもそも表現の不自由なんてものは現代日本には存在しない。
すべての日本人が、コンビニのアイス容器に寝そべった写真を、線路内立ち入りしWピースした写真を全世界に公開することが出来る。子犬を袋に入れて海にぶん投げてもいい、性器の型取り3Dデータを配布したり、秘密結社ギフハブの集団ストーカーに怯え、頭にアルミホイルを巻きつつ詞を諳んじても良いのだ、まさに自由である。
もちろんその半分は違法だが、実行したとたんに特高がやってきて、非人権的監禁拷問自白強要をすることは無い。
ここはいくつかの例外を除いて違法行為が罰せられる、比較的平和な民主主義社会であり、基本的人権のまあまあ尊重された世界である。
表現については、エロ(モロ)がダメとか、盗作がダメとか、人を貶めたらダメとか、そういう法律はもちろん存在する。
いわゆる「著作権法」「刑法(猥褻物系)」「刑法(名誉毀損罪)」「ヘイトスピーチ規制条例」である。
だが、くまのプーとつぶやくだけで人民軍に連行され人格矯正施設でブレインウォッシュされる事も、内蔵抜き取られて人体の不思議展に展示されることもない。
盗み、他人を傷つけることの報いを受けるということは、表現についても全く同じ。というだけである。
そもそも、各法律のここ数年間の適用実績を見る限り、主な受益者は左翼陣営であり、というか彼らのの伝家の宝刀的メインウエポンなわけで。
つまり言葉狩り、エロ規制を筆頭に表現の不自由そのものが左翼陣営のお家芸にも関わらずダブルスタンダードをカマしているわけだが…
話がズレた。
豚は激怒したのである。何に?
アートがポリコレ棒に雑に巻かれるボロ切れに成り下がったからである。
別に豚は、アートに政治を持ち込むな!とか社会派アートは認めない!とか無邪気な話をしている訳では無い。
アートは作家のビジョンを伝えるものであるが故に、作家の理想のイメージや、社会に対する強烈なフラストレーション&ルサンチマン&空腹&性欲&支配欲…などの臭くて汚いモノ達まで作家の全てを含有する。そしてそれらを作品に昇華したとき、そこからにじみ出るパーソナルでアレなエキスが、 優れたアート作品をつくり、そこに政治性を持たせることがある。
もちろん心理学的に計算しつくされた優等生的社会派作品もあるであろう。だが真に優れた作品の持つ共感性というものはほとんど、練り込まれたパーソナルな物語から醸し出されるものである。
つまり優れたアーティストは、己のおぞましさを知り、出来得る限りそれを美しくオブラートに包む。そのオブラートそのものがアートである。といっても過言では無い。
※もちろんオブラートに包まない生々しい作家もいる。
巨大な布でポンヌフ(橋)をまるごと包むクリスト、死した恋人と体重と同じ重さの飴を展示するフェリックス・ゴンザレス。
その強烈なイメージと儚く消えゆく展示形式は、現代美術ってわかんね勢をも唸らせる本物のアートの力がある。
ただ、日本人でこの手の優れた現代美術家って宮島達男とあと数人くらいなものでして…ぶっちゃけ遅れてるんですスミマセン。偽札作ったり、硬貨並べて喜んでるレベルなんですよ…。タブー(通貨偽造罪)に打ち克った!みたいな精神的勝利宣言して終わっちゃうの。まあ有罪になったりしてる分、ロックなアートではあるんですけど…蟹工船で盗んだバイクで走り出す感じ?
そんなもんで表現の不自由展が低クオリティなことも合点がいく。
そっち側のアーティストが「反抗のための反抗」にわざわざ手間と 技術と金をかけるのが惜しいって気持ちもまあ理解出来る。(公金はじゃぶじゃぶ投入されているが…)
ただ、そういうのは日本共産党後援の世界人権デー かなんかで、公民館とか図書館のロビーに、有孔ボードのパーテーション立てて、農協まつりの稲とか孫とかつくしの写真と一緒に展示するレベルのやつでしょ?
あいちトリエンナーレってハマトリとか、越後妻有アートトリエンナーレと比べると落ちるけども、海外作家招聘も多い国際的な祭典で、 多くのアーティストが参加できずに涙を飲んでいます。 もしポリコレ棒をアートで包みたいのだとしても、それなりに高級な布で包まなきゃいけない大舞台です。これはドレスコード的なマナーです。そんなレッドカーペットに恥ずかしげもなくジャージビーサンでやってくるような、この人達の厚顔無恥さ。
アートなんかどうでも良い、ただ日本を叩きたいっていう溢れる気持ち。
そういうアートを軽視し、むしろ馬鹿にしている人間の顔がニヤニヤ金髪豚野郎だから
豚は激怒しているのである。
現代美術分からないなんて言わないよ絶対
- 「美」美しさ(フィジカルなもの、内面から輝くうんたらかんたらは除く)
- 「技」技法、技術(抽象化、表現力、デフォルメの妙なども含む)
- 「衝」インパクト
- 「特」特別(後述する)
- 「語」物語性・メッセージ性
- 「説」説得力(コンセプト・文脈など)
新海誠「ほしのこえ」 ~人類補完計画完了後のセカイ~
新海誠の作品は、かなり前にネット上で話題となっていた「ほしのこえ」を見たのが始まりだった。
最初は「世界観は面白い。ともかく一人で作ったのはすごい。」と思って見始めたのだが
開始3分でむずむず違和感が、10分で謎の脂汗が出始め、あとは羞恥と謎の怒りっぽい感情に身を焼きながら見続けた。時々耐えられなくなると、DVDを止めて、また見る。という息継ぎ方法で最後まで見終わった。
煉獄のように長い25分間だった…そしてその夜は朝まで眠れなかった。 こんなこと初めてだ…大日本人だって最後まで見たが、こんな気持にはならなかった。(視聴時間分の喪失感はあったが…)
作品を100文字以内で簡潔かつ正確に表すと
「エヴァ」のコックピットに「最終平気彼女」の「ちせ」を乗っけて、「トップを狙え」の世界観にぶち込んだ後、ちせと主人公以外の全員を消去してスッキリした後の世界の中で繰り広げる光の距離で隔たった遠恋。」
で98点くらい貰えると思うのだけど、それだけでは「 オマージュだなあ~」以外の感想を説明できない。
そこで、この理不尽といえるほどの感情が湧いてくるのか何故かと悶々と考え続けたところ、原因が「ディスコミュニケーションの放置 & 賛美 」にあるんじゃないかと思い当たった。
ディスコミュニケーション=コミュニケーション不全は ありとあらゆる物語で成立する根本的なな道具立てであり、例えば
寄生獣(ミギーと新一の食い違い)だって、ムラカミハルキ(直子…。)だって、ロミオとジュリエットだって、これをうまく使って物語を進めてゆくのがセオリーだ。
だが、この作品は明らかなディスコミュニケーション事案が頻繁に発生しているのに、尽くスルーされつつ物語が進んでいく。
さながらボケに誰も反応しないコントのよう、そこにはコール・アンド・レスポンスは存在せず、ただ孤独なコールが目覚まし時計のように繰り返されるばかりだ。
(※名倉が入る前のネプチューン(フローレンス)でボケの掛け合いのみをする泰造&ホリケンはシュールで秀逸だったけれど…)
これは寄生獣でいうと、序盤のトイレでミギーが突如屹立したモノを形取るシーンで、新一が嘆くばかりで突っ込みをしないのでミギーも引っ込みがつかず、 終盤まで ミギー=男根のままで物語が進んでいってしまった…ような場合における居たたまれなさに似ている。
しかももっと突っ込んだ話、ディスコミュニケーションに対するレスポンスが無いということは、ミギーも成長しない。
だから硬い口調のまま、新一の頭、左手(両左手の男)、食い倒れ人形など、 いつまでも いつまでも趣向を凝らした造形を試みるので、 カーズ様(完全体)みたいな状況になってしまう新一。でも「なんで僕がこんな目に…」とブツブツ独白を続けるだけの新一、でもそれを横で見ていたヒロインは新一にゾッコン惚れちゃう。 (この後ヒロインは突如北海道に引っ越してしまう。) といった構図で表すことが出来るだろうか…。
むちゃくちゃ当たり前なことだけれど、 個人が個人であるかぎり コミュニケーション不全は全人類の主だった悩みの一つであり続けるし、根源的に人は理解をされようとあがき続ける。それが人間だとおもう。
ただ、ちせも主人公も足掻かない。ただその状況を受け入れるだけ。
そこにあるのはエヴァの人類補完計画(ゼーレ)後のセカイ、個人と個人の軛から開放されたLCLを新海誠が掬い上げ、ちせと主人公を形取ってうっとりと恋愛ごっこをさせている…。そんな不気味の谷現象に似た気持ち悪さだ。
※後から「新海誠 ディスコミュニケーション」で検索したら
http://wordsofgold.hatenablog.com/entry/2016/10/02/210530
の記事が見つかりました。
こちらの方の圧倒的文章力でほとんど私の言いたい事が言われてしまってますが
記念に書かせていただきました。